たすけあい共に輝く命がある 天台宗 一隅を照らす運動 The Light Up a Corner of the World Activities

1.生命 いのちを考える三つの視点

1.限りあるいのち

蓮の花誰もが大切であると認める生命。大切なものならずっとそのままでいてくれたらいいのにと思いますが、必ずいつかは消える仕組みになっています。生命は、はかなく、いずれ必ず消えてしまう、寿命や他の原因で死んでしまうことを私たちは知っています。仏教では諸行無常といいます。

さて、今日の食事は何でしたか。ご飯、パン、お肉、魚、野菜…。中には精進料理やベジタリアンという方もいるかもしれませんが、野菜や植物も生命があり、その生命をそれぞれの一隅で立派に生きていたに違いありません。

厳しい見方をすれば、いくら人間が共生と声を上げて主張しても、生命を大切にと訴えても、私たちは他の生命を奪わずには生きていけないのも明白な事実です。またこのことは大自然の営みにおいて、生きもの同士の連鎖があるように、他のどんな生きものも同様です。

一方、他の生命を奪うという点に関しては、結局は人間の身勝手であり、エゴです。そもそも常日頃からどんな生きものの生命も、できるだけ失わないように努めなければなりません。そうは言っても、例えば腕にとまった蚊をたたかなければかゆくなってしまいます。食事を取らないと飢え死にしてしまいます。また樹木を伐採して家を建てたり、家具を調製したり、緑の山野にブルドーザーを入れて宅地開発を行ったりしていかなければ人間の住むところが足りません。人間が自然を犠牲にしなければ生きていけないという宿命と現実は心に留めるべき痛みと言えるでしょう。

だからこそ、いろいろな生命の恵みによって生かされている、そのおかげをいただいているという感謝の心を持ち、そのような人間らしい反省の中から、私たちは分相応ということを意識しなければならないということです。そのためには、まずもって自分の生命の大切さを知らねばなりませんし、そうでないと同時に他の生命も尊重できないでしょう。

人生は一度きりで、自分の生命は自分に与えられた時間とも言えます。その一人ひとりの生命は誰でも等しく限りがあることは、当たり前のことです。限りある生命であるからこそ尊厳があり、自他の生命を大切にしなければなりません。そう考えますと、使命というように自分のため、人のため、社会のために何らかの命(めい)を与えられて生きていることを体し、今の自分の役割(一隅)において毎日を生き生きと暮らないともったいないと思えるのではないでしょうか。

2.リレーされるいのち

あるお家で赤ちゃんが誕生しました。「よく生まれてきたね。生まれてくれてありがとう」と、両親をはじめとする家族は赤ちゃんを迎え入れ、新しく家族が増えたお祝いをします。

人は泣きながら生まれてくる生命の誕生という神秘と不思議に一喜一憂した経験をもつ方も多いと思います。その「生まれてくれてありがとう」という誕生を感謝祝福する気持ちやメッセージに始まり、親から子どもへ様々な言葉や形の愛情が注がれ、そうして子どもが「生きている」という自己確認ができ、親子の絆というものがその後の人生を心の奥底で支える基礎となることでしょう。

人はみな生から始まって死に至りますが、生を次代に委ねることによって生がつながっています。つまり、「リレーされるいのち」とは、人間として、種族として、家族として継承される生命ということです。家族でいいますと、祖父母、父母、子、孫というように続いているいのちです。

私たちが先祖や子孫のことを想い起こすことができるのは、せいぜい3世代くらいまででしょうが、私が今ここにいるということは、何はともあれ2人の父母がいたからです。その親がまた2人ずつで4人というふうに倍々に増えていきます。父母、祖父母、曾祖父母と世代をさかのぼればのぼるほど、ご先祖様の数はふくれあがっていきます。これを続けて計算していくと20代前には100万人を超え、とんでもない数字になります。実際はいろいろと複雑に絡み合っているのですが、こうして考えますと人類みな兄弟、ご先祖様はみな同じということになります。人間同士も、すべてのいのちも同じつながりがあるのです。ですから、いのちあるものはみな兄弟と意識できれば、人間同士が傷つけあったり、他の生命を粗末に扱ったりということもなくなるのではないでしょうか。

いつも笑顔で家族団らんまた、草花が生長することについて考えてみましょう。毎年春になるとタンポポが可憐な花を咲かせます。花から綿毛が飛ぶまでの営みをみると、自然の中に尊い生命が厳然と存在することに気づかされます。タンポポは花が終わると苞を一旦閉じ、種をつくり、その間に茎は種たちが風に乗って少しでも遠くへ行けるようにと生長します。やがて丸い綿毛ができると春風に乗って、一つずつ次の生に向かって飛び立ちます。死後に自分の生命の種を維持保存し、次代をつくりだそうとする不思議なサイクルで、いのちの種が継承され、営みが続けられるのです。

タンポポのような小さな草花もアリのような虫も私たち人間も、みな同じ生命の持ち主であり、その生命力は遠い先祖からはるか未来へリレーされていくいのちなのです。私たちは、あらゆる生命の誕生を喜ぶことはもちろん、人間のみならず、動物や植物の生命のつながりや重さをかみしめたいものです。

3.永遠のいのち

大いなる自然の営みを感じよう「人は死んだら終わりなのでしょうか?」いいえ、そんなことはありません。心としてのいのち、魂としてのいのちは無限であり、永遠のいのちです。このいのちの無限のつながりあいは、人間同士だけのことではありません。仏教では一切衆生といいます。この場合の衆生とは生きとし生けるものすべてのことを指し、動物も植物も、みんな私たち人間と同じいのちが繋がっていると考えるのです。

人間は言葉を持ち、過去や未来を、また見えないものをイメージする能力(想像力)を持っていますし、物事に対して感情を持つことができます。人の心の中に生き続けるいのちがあります。

例えば、最愛の親を亡くした時、悲しみにあふれると同時に想い出がいっぱい残っていると思います。いろいろな親のイメージが走馬燈のようにあらわれ、これまで自分を育ててくれ、共に生活してきた親の恩に対して感謝の念を持つはずです。想い出は家族や友人の心の記憶にしっかりと刻まれて生きています。こうした気持ちこそが、たとえ人が死んでも、肉体は滅びても、その人が新しく生きはじめるいのちといってもいいのではないでしょうか。

また、最近感動した本や映画はありませんでしたか。映画や文学作品、絵は人々に感動を与え、勇気を奮い立たせます。その作者は他界したかもしれませんが、素晴らしい文学作品はいろいろな人に読み継がれています。さらに博物館や美術館の展示物は時空を超えて私たちに感動を与え、見た者はその時代時代の生き様や息吹を自ずと感じ、イメージをかきたてます。悠久のロマンあふれる古代遺跡や建築、様々なジャンルの音楽や芸術もしかりです。それらはみんな魂が宿っているからであり、それを人々は認め、忘れません。

山鳥の ほろほろとなく 声きけば 父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ
(『玉葉和歌集』)

これは奈良時代に活躍した行基菩薩(668-749)の和歌と伝えられていますが、山鳥がほろほろと鳴く声を聞くと、輪廻転生(りんねてんしょう)は人間だけでなく、今鳴いている山鳥も、もしかしたら私の父や母ではないだろうかと思う、と詠んでいます。日本人は自然を崇拝し、山を祖霊の宿る神聖な場とみなし、森羅万象のすべて、海や川、土の中にも大いなるもの、聖なるものが秘められていると感じ、それに畏敬の念を抱いてきました。

「山川草木悉皆成仏」という日本仏教の思想は、すべてが平等で、生けとし生きるものがお互いに寄りあって生きることを説く『法華経』の世界観と、八百万(やおよろず)の神といわれるような日本の神々の思想とが融合し、日本独特の仏教として形成されました。人間だけではく、動物も植物も山も石ころも風も雨も雪も全部役目を果たすためにあり、持ちつ持たれつの関係でいろいろないのちが共存しているという思想です。山も川も草も木も仏であり、全ての生きとし生けるもの森羅万象すべては仏の声であり、姿であり、いのちであると考えてきたのです。

個々には永久的ではないけれども、滅したのち次のものに生まれ変わる生命循環(仏教でいう転生)という流れの中で永遠です。この思想によって本来この世の一切は大宇宙(仏)の営みのひとつの形として生じたみな等しいいのちととらえることができ、因と縁でお互いに助け合いながら自然のバランスを保ってきたすべてのものに、私たちはいのちや心を感じます。日本仏教における自然主義ともいうべき共生(とも生き)の原点はここにあります。だからこそすべての生きものはお互いを生かしあわなければならないという認識が生まれてくるのです。

大自然すべてが仏法の尊い姿で、少しもうそ隠しがなく、目の前に堂々と現われている真理を無心に眺める時、全てを包む大きな意味でのいのちの中に生と死を深く見つめることができるでしょう。私たちが生かされて生きているという、永遠のいのちとのつながりをふまえてこそ、初めて万物にいのちなり魂なり心なりを大いに感受することができるのではないでしょうか。