〜たすけあい共に輝く生命がある〜一隅を照らす運動
一隅を照らす運動ニュース
一隅を照らす運動とは
地球救援〜あなたも参加しよう〜
会報「きらめき」
お申し込み&お問い合わせ
リンク集
3分でわかる一隅を照らす運動
仏教 今日の一言
携帯電話対応WEB
メルマガ購読お申し込み
一隅を照らす人になろう
トップページ 一隅を照らす運動とは 一隅を照らす人になろう
一隅を照らす6つの約束
山田猊下
一隅を照らす人になろう〜『山家学生式』の教え〜
家庭宗教のすすめ〜信仰と実践〜
一隅を照らす6つの約束

第253世天台座主・一隅を照らす運動総裁 山田恵諦猊下ご講話


 第253世天台座主で一隅を照らす運動総裁でもあられた故・山田恵諦猊下の講演録(平成3年の東京大会)をもとに編集された『一隅を照らす6つの約束』を紹介します。
 比叡山で修行する僧侶の心得に「六念」というものがありますが、この六念を檀信徒や一般の方々に向けて「六つの約束」としてわかりやすく講話されたものです。家庭における日々の暮らしを見直す指針としてどうぞ生かしてください。
第253世天台座主・山田恵諦猊下
▲第253世天台座主・山田恵諦猊下

運動の二つの柱 〜「仏性の開発」と「浄仏国土の建設」〜

 ただ今、ご紹介を受けました比叡山の山田でございます。幸いにしてつつがなく皆様にこうしてお話をする機会が与えられましたことは、私は、やはりよいことは必ず神仏が助けてくださるという観念を持ちまして、非常に有難く思っております。
 今日まで、皆様のご協力、ご尽力によりまして、一隅を照らす運動が一つの社会運動の標準となり、「一隅を照らす」という言葉が至るところでキャッチフレーズに用いられていることを考えます時、誠に有り難いことであると思っております。
 ただ一点申しますと、私ども伝教大師の教えを奉じて暮らしている者は、一隅を照らす運動を行うに際しての基本的信念を失わないようにしなければなりません。というのは、一隅を照らす運動といいますと、ともすると慈善事業の一つの目標であるとか、あるいは倫理運動であるとかというふうに考えられます。それほどこれは皆様になじみやすいことであると同時に、表面はそのように見えましても、内容はもっともっと深いものがあるということをぜひご承知を願っておきたいと思うのであります。
 昭和44年に我が天台宗が宗祖伝教大師の思し召しを伝えるために、ぜひ一隅を照らす運動を始めたいという念願を時の天台宗宗務総長が起こし、「どのようにすればよろしいでしょうか?」という相談を受けました。その時に、「一隅を照らす運動の基本をはっきり皆が認識した上で進まなければ、その効果は乏しくなる。同時に、今一つ大切なことは長く長く続けることであり、急いではいけないということである」と、この二つをその時に申しました。そして、「どのような理念でいけばよろしいですか?」ということに対しては、「二つの柱を持ちなさい。二つの柱をみんなの心に持つことです」とはっきり申しました。

 では、一隅を照らす運動の二つの柱とは何か。
 まず第一番が「仏性の開発」。仏性(ぶっしょう)とは、生まれながらにすべての人に具わっている御仏様の心をそのまま自分の生活の基本にするということであります。これが一つ。もう一つの柱は、「浄仏国土の建設」。仏の住む国土をこの地球上につくることであり、すべての人が仏教精神を尊重し、信頼しあえる世の中とすることです。
 この二つの柱を目標にして進むのであって、倫理運動でもなければ慈善事業運動でもありません。根本からすべての人々の心を入れかえることが第一番目の柱(仏性の開発)であり、同時に世界は一つという大きな眼をもって対象にするということ(浄仏国土の建設)が第二番目の柱であります。

「仏性の開発」と「浄仏国土の建設」 仏性とは一体何かといえば、仏の性質と書き、何でもないことのようでありますが、ともすると私たちと御仏様はかけ離れたものであるというふうにすぐに取ります。大聖釈迦牟尼世尊がお説きくださった教えというものは、決して理想ではないのであります。現実の人間をつくりだす、しかも、その目標においてすべてが仲良くするという一つの共通理念のもとに人間が進んでいくということにならなければ、この地球を守っていくことができません。
 つまり、すべてのものの一番に支配権を持つのが人間でありますから、この人間が善き心を持つか、悪しき心を持つかによって、地球に住むすべての動物、植物にまで影響してしまいます。ぜひとも正しい人間でなければならないということを私は皆に教えたい、これが仏教の基本であります。
 したがって、御仏様ははっきりと仰せになっています。私どもには生まれながらにして二つの心を持っている。一つは善いことをしようという心、もう一つは、その善いことをしようという心を邪魔する心、すなわち悪心があります。善心と悪心を寄り合わせたものが我々の心の中に存在しています。一つではなく、善い心と悪い心と、この二つを私どもはいつも持っているのです。
 私の経験からいくならば、悪い心をもって悪いことをした時には、必ず苦しみが付きまとってきます。善い心をもって善いことをした時は、必ずそこに一つの楽しみ、喜びが付いてきます。私どもが苦しいとか悲しいとか、自らいろいろと苦しみを持っているということは、知らず知らずにかかわらず悪い心を承諾して、その心のままに動くから、悲しみ、苦しみが湧いてくるのです。私は、その悪い心、悪い行いをしないということを習慣づけたいから、仏道の修行に入りました。仏道とは仏になる道で、その修行というものは別に難しいものではありません。悪い心を起こさないよう、悪いことをしないようにという、ただそれだけであります。
 しかし、人間は弱い。すぐに誘惑に負けそうになります。それを辛抱しようという考え方をもって、耐え忍んでいく。この辛抱、これが仏教の本当の修行であります。そうして善い心をあくまでも尊重し、善い心を広く広く働かせてよいことをしようと心がける。このような人間にならなくては、いかによい理論ができ、よい教えを聞いても何の役にも立たないことになります。修行とは行うことです。悪い心を捨て、善い心をもって進んでいく人間にならなければならないと私ははっきりと言っておきます。
 お釈迦様は、「仏にも悪い心もあれば善い心もあるが、悪いことをすれば必ずそこに苦しみ、悲しみが湧いてくるから、私は絶対に悪いことをしないと誓って、それをはっきりと守ってきました」と仰せになっています。そう考えてみますと、仏性とは一体何か。すなわち、善いことをする、善い心を動かすという、これだけであります。善いこととは一体何か。これもまたいろいろの考え方がありましょうが、一番に大切なことは、一人じゃなく、「みんなが」ということです。このみんなの中には山川草木といったあらゆるすべてのものが抱き込まれた時が、これが本当にお釈迦様の一番望む世界であります。この世界をつくるために王位を捨て自分で実行して皆に見せてきたのです。これがお釈迦様の本心であり、仏教の世界観であります。
 したがいまして、私どもは、善いことをするということは、すべてのものが喜び、すべてのものが満足するとともに、すべてのものが安心して暮らしていけるという世界をつくる、これが最上のよいことであります。
 よって、私どもが仏性の開発ということをやかましく唱える本筋はどこにあるのかといいますと、すなわち、善い行いをして仏になりましょうと心がけて生活することであります。我々のように業が深いもの、業の強いものが、今日その方針を立てても、すぐさま行うことができないから、長い年月をかけてやっていこうじゃないですか。長い年月とはいつか。それは自分だけではなく、自分の子どもにも、自分の孫にもこれを申し伝えて真実を尽くし、御仏の心になって働く人間をつくっていくことであります。これが一隅を照らす運動の一つの柱、仏性の開発であります。
 したがいまして、自分だけがよく行うだけじゃなく、自分の子どももよく行う人にしていかなければなりません。その子どもに生まれる子どももよく行う人にしていかなければなりません。そのような非常に気の長い考え方で、取り組まなければならない大切な運動であります。

 第二の「浄仏国土の建設」ということは、いわゆる仏心をもった人々が仲良く暮らせる社会をつくっていこうということであります。
 とても一人や二人でできることではありません。これは全く容易なことではありません。だから、その気持ちを持ってくれる人々が手を組んで長く長く続けていくということが大切となります。この基本方針を皆がしっかりと認識して、その基本方針に従ってこの運動を展開すれば、私は伝教大師の御心に沿った本当によい世界を生み出すことになるんじゃないかと思いまして、「私も喜んで賛成させていただきますと同時に協力をいたします。ただし、続けなければならないという第一の条件を果たしてできるかできないか、これを一宗(天台宗)の人々がはっきりと認識することです」と、これが一隅を照らす運動が発足するに当たって、一番最初に私が当時の宗務総長に申しました言葉でありました。

生活の中の6つの約束

 おかげさまで今日まで、日本全国津々浦々に至るまで、一隅を照らす運動が徹底してまいりました。そうして我が天台宗だけではなく、すべての人々の心の中に、「一隅を照らそう」「一隅を照らす行い」こそということが行き渡ってきたのであります。したがいまして、この運動精神を私どもは自分がやるだけでなく、どうしても子々孫々に至るまで続けさせなければなりません。それにはどうすればよいか。もとより私どもの寿命は短い。しかしながら自分たちの子孫は永遠に続きます。自分の心は子どもに伝わり、子どもの心は孫に伝わるのです。  
一隅を照らす6つの約束
 

 ここにまず、よき家庭をつくるということを第一番に考えて、黙って実行することにしようじゃありませんかと申し上げたい。つまり、行いによって心を伝える以外に続ける道がないからであります。実はこれも伝教大師様の思し召しであります。 

 
 伝教大師様のご存命の時に、奈良に六宗七大寺ができて仏教が立派に移りましたが、仏教的活動に制約がありました。というのは、お坊さんはこれだけのことを守らなければいけません、このようにしなければいけませんと、朝起きてから夜休むまで、いろいろなしてはいけませんという規則がありました。この二百五十戒を厳しく実行しなければならないので、これに心を取られて他を導くことがおろそかになり、真の仏教活動ができていなかったのであります。
 そこでもっと考えようではないかということから、お坊さんが朝のお勤めをした後で、その日の心がけとして祈念する、いわゆる「六念」というものができました。伝教大師の時にこれがやはり奈良の東大寺に伝わっておりまして、伝教大師も授かり、これが一番いいと実行されました。伝教大師が比叡山に天台宗をお開きになると、これを天台宗用につくり、授戒の後でお授けになりました。今日も天台宗の戒弟のお坊さんは皆、比叡山の大乗戒壇院で行われるお授戒で六念を授けられています。伝教大師の思し召しは、お授けしたいろいろの戒律をみんなが「ああじゃ、こうじゃ」と言っておっては非常に仕事に差し支えるから、この六念を心得て働いてほしいということであります。
 伝教大師の大切な思し召しで六念が編み出され、流れを汲む私どもはそれを実行していますが、これはお坊さんとしての六つの心がけであります。これを私は一般の方々にもぜひ守っていただくことができるならば、そこにいわゆる「仏性の開発」も、あるいは「浄仏国土の建設」も穏やかに進めることができるんじゃないかということで、在家の人々に通じる一般的なものに改めてみまして、機会ある毎に皆様にお願いをしております。

約束その1<反省>

 六念の第一番目が、皆さんの心がけとしての第一番です。
 伝教大師の六念の一番目には、「今日こうしているけれども、布薩(ふさつ・布薩は半月に一度の自己反省の機会)を去ってから何日になる。その間、あやまちなく過ごせたかどうかを考えよ」と書いてありますが、私はそれを皆々様にわかりやすく、「私の昨日の行いについて反省すべきことがありはしないか」というふうに改めました。  

 御仏(お仏壇や仏間)にお参りになった後で、すぐに立たれずに、じっと御仏様のお姿を拝みながら、第一番目に私は天台宗の僧侶として、檀徒として、昨日の行為や考え方について反省すべきことはないかと、まずはじめに昨日を思い出していただきたい。そうして、もし反省すべきことがあるならば、直ちにそれを改めることにしたならば、心も落ち着き、勇気が湧きます。これが第一番目の第一念。昨日のことについて反省すべきことがありはしないかということです。これが第一番目であります。


約束その2<予定>

 第二番目には、今日は何をするのかということを考えてもらいたいと思います。
 家にいて仕事をするのか、あるいは来客があったり、何かを用意するようにという約束をしてないか、あるいは、どこかへ行く約束や用事があったのではないかなど。その日の予定を朝その時に考え、思い出してみる。そうすれば、「ああ、忘れていた」ということはなくなり、信用にも関わる大切なことになります。したがって今日は家で仕事をするのか、外へ出るのか、誰かが来るのかという約束を思い出してもらいたいということです。これが第二番目であります。

約束その3<内省>

 第三番目には、自分は人間として恥ずかしくない考え方、恥ずかしくない暮らしをしているかどうかを、もう少し深く考えてみてください。人間として、家長として、家婦として自分の立場を考えて、そこに正しく自分自身が生きているかどうかということを第三番目に考えてもらいたいと思います。これが第三番目であります。

約束その4<生活>

 第四番目には、自分の生活に無駄はないかということを考えるのです。物質的にも精神的にも考えてみて、そこに正しく自分はつつしまやかにやっているか、それを反省します。
 これはどういう意味かといいますと、すべてのもの、この世の中に存在するあらゆるものは必ず存在しなければならない一つの条件(理由・意義)があるから存在しているのです。ただ今の言葉で申しますと、いわゆる自分自身だけでなく、すべてが存在する価値があるから存在しているということです。価値がないものは全部この世の中から去らなければなりません。この世に存在するものには必ず価値があるのであって、その価値を生かしているかどうかということなんです。これがすなわち、無駄を省くということ、無駄をしないということになります。
 とにかく、ものの値打ちをそのままに表してやるということ、これが第四番目に考える反省であります。誰のためにもならない、何のためにもならないようなあり方で生活していないかどうかを考えてみます。このことは一つの経済面においても、あらゆる思想面においても当てはめられることでありましょう。
 第四番目にはすべてのものに値打ちをはっきりとつけて、それを生かしているかどうかということを考えるのです。これが第四番目であります。

約束その5<家庭>

 第五番目には、自己一人ではない、人間という立場にある限りには、みんなとともに仲良くしなければならないということです。仲良くする基本はどこにあるか、それは家庭生活にあります。果たして自分の家庭が円満にいっているかどうかということを第五番目に考えるのであります。 家族円満の秘訣はあいさつや会話から
 もしうまくいっていないとすると、どこに欠点があり、どこに注意しなければならない所があるのかということを考えてみる。けれども、そういうような難しいことを言っているよりも、一番大事なことは、みんなが顔を合わす時間を持つということです。朝起きても、「おはよう」とも言わなければ、挨拶もしない。帰ってきても、「ただいま」とも言わないような家庭では何の意味もなしません。
 私は自分の寺におりましても、挨拶の競争というとおかしいですけれども、顔を見たものが、どちらが早く「おはよう」と言うかを競争しております。お年寄りや目上であるとかではなく、人間同士でありますから、仏様(勤行の仏間)から帰ってきて顔を見るたびに、「おはよう」と言います。この「おはよう」が大きな声で出るのと、小さな声で出るのとでは、大きな違いが出てきます。
 どうか皆さんも、ぜひとも「おはよう」という言葉を訓練づけていただいて、子どもだろうが他人だろうがかまいませんので、朝会う時には必ず「おはよう」という挨拶をすることを心がけてください。それもなるべく元気よく、にこやかにしてもらえさえすれば、その人々も喜んで、「おはようございます」と笑顔が出てくることになります。そうしていきますと、昨日まで元気であったのが、今日の「おはよう」の言い方には元気がない、どうもちょっと今日はおかしいんじゃないか、何か心配があるのではないかと気づきます。例えば、朝の挨拶の後で「学校はどうだい?」と聞いてあげれば、「実は学校でこんな出来事がありました。言いにくいものだから黙っていました」というような会話のきっかけになります。そうして、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さんから、「どうしたんだい?」と聞かれるきっかけができるから、「こうでああでと」「ああそうか、それはおまえが悪い」「おまえがいい」「こうしないといけない」「ああしないといけない」というふうに、話ができることになってきます。
 このきっかけをつくるのが「おはよう」なんです。同時に「おはよう」のあり方によって、先方の気分を知ることができます。そうして、その時知った気分に従って、そこの気分を明るく直していく工夫をするということ、これがまず大切です。
 そして次は、やはりみんなが寄って一緒に食事をするということ、これが一番大事なことです。同じ家庭に住みながら、顔を見ても、ただいるだけで話する機会もないというようなお家がたくさんあるらしいです。そんな状態から話し合いの機会をつくるというのは容易なことではありません。容易なことではありませんけれども、食事をすることは誰でもしなければならないのですから、できる限り食事の機会を生かす。
 現代は仕事や学校の関係で朝は会話ができない、昼もできないというのはやむを得ないことですが、夕飯はなんとかできるのではないでしょうか。したがって、一週間に一回でもいい、二週間に一回でもいい、必ず家族が相集まって夕飯をとる機会をつくることをしてください。これが第五番目であります。

約束その6<祈り>

 そうして、第六番目に初めて、「どうぞ今日も皆様とともに無事でありますように」というお祈りをします。
 伝教大師の六念では、「今日も無病、病気にならずにみんなとともに修行ができますように」というのが第六番目です。これはみんなに通用することでありますから、私はそのまま用いて、「今日も無事に皆とともに仲良く過ごせますように」と、ここで初めて御仏様にお辞儀をして立っていきます。
 みなさんもどうぞ朝に仏壇や神棚にお参りをして下さい。ただ、仏壇の前でチーンチーンと鐘を鳴らして頭を下げるだけではなく、「今日は儲かりますように」と、これも悪いことではありませんけれども(笑)、それも一つの方法でしょう。「今日は無事に進みますように」も一つの方法であります。
 けれども、それだけではなくて、今申しましたように六念を基本に考えて実行していいただくことができるならば、そこに仏国土の建設とか、仏性の開発とかという難しいことを言わなくても、御仏の心が自然にそのまま具わり、用いられていることになります。
家族みんなで仏壇にお参りしよう
▲家族みんなで仏壇にお参りしよう

 一隅を照らす運動に熱中すればするほど、この六念をしっかりと持っていただきたいということをぜひお願いしたいのであります。 

 
伝教大師の六念
原文(読み下し文) 家庭における日常生活の指針
一念 今朝若干日去布薩
(今朝若干日、布薩を去る)
一、 昨日の反省
昨日の生活について反省することはないか。
二念 食僧常食若有請者請
(僧の常食を食するや、若しくは請者の請有りや)
二、 今日の予定
今日の予定や仕事で大事なことはないか。
三念 見菩薩比丘戒未有
(菩薩比丘戒を見るに未だ有らず)
三、 自己の内省
人の道に外れていることをしていないか。
四念 三衣鉢具足受持長戒未説浄
(三衣鉢具足受持長戒いまだ説浄ぜざるや)
四、 正しい生活
生活に無駄はないか。ものの価値を生かしているか。
五念 不別衆食
(衆に別れて食せざるや)
五、 円満な家庭
「おはよう」のあいさつ。食事を家族みんなでとる。
六念 無病随衆行道
(無病、衆に随って道を行ずることを)
六、 神仏に祈る
無事にみんなとともに過ごすことができることを神仏に祈る。

六念を持ち家庭を円満に

 今日、世界の人々の集まりにおいて、今一番に皆の注目になっておりますのが日本であります。日本の国民性であります。日本の家庭生活であります。これが今、世界中のすべての人々の目標になっています。
 過日にアメリカへ参りました時も、他の国からたくさんお見えになっていました牧師さんなり、お坊さんなりの方々がみんな「日本はいいところですね」とおっしゃてくださいました。せっかく人間に生まれるのならば日本に生まれたいという願いをみんなが持っております。皆さん方が日本人だから言うのではありません。みんなが心からそう思っているのです。教育が行き届いている、みんなが仲良く暮らしている、非常に素晴らしい国民性であるということ。褒めることばかりを言ってくださることは有り難いと思いますが、これをやはり持ち続けなければなりません。
 持続するためには、家庭を円満にして、そうしてこの六念をはっきりと認識して実行される時に、そこにいわゆる世間の人々から喜ばれるよき社会が生まれ、自然に一隅を照らす運動になるのであります。と同時に、自分に六念がありますならば、人に言われなくとも悲しい人を見た時には手が出る、苦しい人を見た時には手が出るのであります。自然に慈善事業にも心が出ていることであり、たとえ私が今日、これをいただかなければならないけれども、これをいただかなくても暮らしていけるのだから、この分だけを今日食べられない人に差し上げましょうという気持ちになります。慈善箱の中へ各自のお気持ちを入れていただくことができるならば、それが集まった時には大きな力になって働かせていただいているということになります。

御仏の心で一歩一歩進む

 一隅を照らす運動とは何か。まず、自分自身が御仏の心になることであります。次には、御仏の心でもって社会を眺め、社会に尽くすことであります。このためには足元を大事にしなければならないから、円満なる家庭をつくることであります。
 どうぞ一つ、ぜひともこのように身近にこの一隅を照らす運動を考えていただき、身近に実行していただくことができますならば、そこに自然の行いの上に成果が出てきます。「よく行い、よく言う人を国の宝とする」と伝教大師も仰せになっています。
 この「よく行い」という行いを大きく考えずに、家庭を円満にし、家庭の中においてまず和気あいあいの気分を養成するのです。つくり上げた和気あいあいの心をもって社会に応対していく、社会に活動していく、社会に尽くしていくという気持ちになっていただきますならば、そこに知らず知らずの間に伝教大師精神が蔓延しまして、本当に50年、100年の後には、必ず浄仏国土の建設ができうると、私はそのように信じております。
 伝教大師の思し召しは、決して今日明日にこうしてくださいではないのです。足元から踏み直してください、もう一遍、出直してください、ということなのです。私たちはただの人間ではないんだと、御仏の教えを受けて暮らしていこうという私たちですから、まず御仏の心を知り、御仏の心になって一歩一歩進んでいっていただきたいのです。伝教大師は「急ぎません。だから私は成就するまで何遍でもこの世の中へ生まれてきます」と、はっきりとおっしゃっておられます。
 ですから私は、慈善事業をして下さる方を、全員が何か伝教大師様の生まれ変わりのような気がしまして、手を合わさせていただきます。どうぞ、あらゆる面において、人様の手本となる善いことをしているお方は、全部、伝教大師様の生まれ変わりであると尊び、そうして自分もそれを真似させていただきましょうという気持ちを持っていただきますならば、それがそのまま一隅を照らす運動になり、一隅を照らす人になり、一隅を照らす運動を実行する人になるのであります。  
一人ひとりが輝き、その光が集まって社会を照らす 
一人ひとりが輝き、その光が集まって
社会を照らす
 

 どうぞ、あまり難しく大きく考えずに、身近なことから手直ししていただくという気持ちをもって、今後のご精進をいただきますならば、誠に有り難いと思います。(終)


※平成3年に読売ホールで開催された第22回一隅を照らす運動東京大会の講話をもとに『一隅を照らす〜六つの約束〜』が一隅を照らす運動総本部から発刊されており、本稿はこれをもとに編集しました。

山田恵諦(やまだえたい)

 明治28年兵庫県生まれ。明治37年に兵庫県の延命寺で得度。延暦寺一山戒光院の堀恵慶住職の弟子となり、法名「恵諦」を賜る。大正9年に天台宗西部大学卒業。
 延暦寺執行、天台宗教学部長、天台宗勧学院院長、滋賀院門跡などを経て、昭和49年12月1日に第253世天台座主に上任され、一隅を照らす運動総裁に就任。昭和60年に仏教伝道功労賞、平成元年に庭野平和賞を受賞。また、昭和62年に開催された比叡山宗教サミットを成功に導いた。平成6年2月22日に享年100歳で遷化。
 主な著書に『法華経と伝教大師』 『元三大師』 『慈覚大師』 (第一書房)、『生きる生かされる』 (佐川出版)、 『山田恵諦法話集』 (平凡社)、『大愚のすすめ』 『和して同ぜず』 (大和出版)、『道心は国の宝』 『己を忘れて他を利する』(佼成出版社)など多数。

▲ページの先頭へ戻る
サイトマップ個人情報の取扱いについて
COPYRIGHT © 2006 天台宗・一隅を照らす運動総本部 ALL RIGHTS RESERVED. 当ホームページ上にある文書・写真・イラスト・動画等の無断使用・複製をを固くお断りいたします。